※過去にnoteにて公開していたものの移植です。
2021/07/30 執筆
2023/02/11 再公開
感傷マゾの季節です。 人たち、いかがお過ごしでしょうか。
麦わら帽子を被った白いワンピースの女の子は脳裏に焼き付いておりますでしょうか。 上田温泉電軌デナ200形に乗って上田の実家に帰る夢、夏の匂いのする畦道を駆け抜けた夢、木陰に座ったまま氷菓を口に放り込んでいる夢を何度も見ていますか。 縁側、川で冷やした野菜、向日葵、錆びた自転車や標識、生い茂る蔦、潮風、ラムネ。 己の青春に存在しなかったものたちです。 そして傷つき、祈ります。
時間的な外面と無時間的な内面のギャップは開いていくばかりだけれど。 気持ち悪い。でもこの気持ち悪さすらも快感になってしまうので厄介なのです。 こうして感傷マゾのことを考えていると「エモい」という言葉を連想します。 なんとも言い表せない素敵な気持ちになったときに使う俗語らしいですが、ちょっと苦手です。
もともとすべてを言語化することについてあまり積極的ではないのですが、「エモい」という言葉はまさに私が言語化したくなかったものを普遍的でつまらないものへ貶めてしまったような感じがするのです。 “なんとも言い表せない”から素晴らしいんじゃないのか、と首を傾げてしまう。 言い表せなかったものを言い表せるようにした言葉なので、使い勝手がいいのは分かります。私もなんだかんだ使います。 ただ、時々考えてしまうのです。 もしこの言葉が無かったら「エモい」で片付けられるエモーションにももう少し個性が見られたのではないか、近しいけど少しニュアンスの違う表現を使うしかなくなったときの“言葉と実際の感情との齟齬に苦しむうつくしさ”が奪われなかったのではないか、殺されなかった感性があるのではないか、と。 「エモ」というのは、その狭間にある正確に言語化はできないけどなんとなく感じることだけはできているものを乱雑に一括りにした言葉でしょう。
しかしそれらは正確に言語化できないほどのポテンシャルを秘めていること自体に限らず、なんとか誰かに伝えようと言語化しようと苦しむところまで含めてうつくしいと思うのです。 この言葉は悪だ、使うな、などと言う気はありません。怒ってもいません。 ただ哀しく思ってるのを聞いて欲しかっただけなのです。
いや、哀しく思える自分が好きで、そんな自分を誰かに見て欲しかっただけかもしれない。 だから感傷マゾなんかになっちゃうのです。
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